軍事政権によって「安定」を取り戻したタイ政治

春日 尚雄

前回5月のコラムに書いたタイ政治のその後について触れてみたい。5月22日にタイ陸軍による8年ぶりのクーデターが発生し、その後は軍事暫定政権となっているのはご存じのことかと思う。結論から言えば、現時点で戒厳令が継続されているとは言え治安を取り戻しており、各交差点でバリケード封鎖が頻発した今年初めの状況からすれば秩序と安定を回復したように見える。但しこれがつかの間の安定になるかならないかは、今後の情勢を待たねばなるまい。

ここまでの2000年以降の状況を整理すると、2001年のタクシン政権成立、2006年のクーデター・タクシン亡命、2011年のタクシン実妹のインラック政権成立、2014年のクーデター・軍事政権成立、となる。タクシン=インラックによる政策の基本となった農村振興と農村部低所得者への手厚い支援は、バラマキと強権、汚職、縁故主義と表裏一体のもので、タイにおける従来の既得権益者、エスタブリッシュメントにとっては大変不愉快なものであったのは間違いなかった。タイを最も不安定にしたのは、低所得者層を中心としたタクシン支持派が総選挙で常勝するようになったことで、従来のタイでは見られなかった政治的立場による国民の二分化という現象が表面化したことである。またタイ国民の心のよりどころで、政治的中和剤でもあったタイ王室への疑問がタイ人の間でささやかれるということもかつてなかったことである。

民主主義の原則に則り、選挙結果を尊重することが何よりも重要であるとの意見はもっともである。しかし多くの開発途上国で経験したように、民主化を推し進めることで多くの犠牲を払うこともある。ましてタイは本来、共産党一党独裁やマルコス、スハルトのような極端な政治体制ではない。5月のクーデターは、国を二分しかねない極めて緊迫した状況の中で発生した。クーデターと軍事政権を擁護するものではないが、あの政治的混乱の中では他に取り得た解決策は限られていただろう。むしろ私は今の軍事政権下における政治はタイにとってチャンスであると考える。タイにおいては驚くことに相続税(あるいは遺産税)は存在しない。この制度の導入について多くの高所得者層が反対するからである。これはタクシン政権下でも同様であった。プラユット暫定首相と軍事政権は経済改革の一環として、相続税の導入を閣議決定し法案化しようとしている。

軍事政権に「世直し」を期待するというのは何とも皮肉なものである。しかしこうした強権の下でしか実現しない政策があるのはタイに限らずあるものだ。とは言え軍事政権が長引けば国際世論の批判を受け、最悪タイ経済は立ちゆかなくなる。タクシンの負の遺産の一つ(と私は考える)は、タイにおける改革の時間を縮めたことかも知れない。国内の深い対立の構図を解消する難題を短時間で目処をつけるのは、ごく細い道を走るような綱渡りに他ならない。こと政治に関してタイ人は実に柔軟な知恵をもって対応してきたという歴史がある。しかしASEANの主要国でもある現在は衆人環視の中、国内外を納得させるだけの結果を出さねばならず、タイは極めて大きな試練に直面していると言えるだろう。

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