世界は「虚構」でできているのか

塚原 典央

 いささか出遅れ気味ですが、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史(上下、柴田裕之訳、河出書房新社、2016)』の話をしたい。ハラリは、私たち「サピエンス」が地球を征服できた理由をサピエンスの「虚構を創作する能力」にあるとしている。サピエンスはこの虚構を不特定多数の者が信じることによって、大規模な集団行動をとれるようになり、ライオンなどの動物やネアンデルタール人など他の人類種に打ち勝ってきた。
 それでは「虚構」とは一体何か。それは「架空の事物」のことであり、具体的には伝説、神話にはじまり、宗教、貨幣、国家、人権、法律、正義、さらに自由主義や共産主義、資本主義といったイデオロギー、果ては自然科学に到るまで、ありとあらゆる事物が「虚構」だとされている。え! 科学も。ハラリによれば、近代科学は「進んで無知を認める意志」を持っている。どのような科学理論も神聖不可侵ではなく、常に新たな理論に取って代わられる可能性を持つというポパーの科学理論の反証可能性のような理由によって、科学も「虚構」の一つなのである。
 そしてハラリはこの「虚構」を創作し共通の神話として不特定多数のサピエンスの間に広めることができたのは言語のおかげだとしている。しかしそれでは、言語によって表現されるものは全て「虚構」であり、それは絵空事や夢幻も同然なのだろうか。
 この問いに対して、イエスかつノーだ、と答えたい。イエスである意味は、ハラリの主張するように宗教も人権も世界そのものが有する世界の形式であるわけではない。それらはサピエンスが「発見」したものではなく「発明」したものである。そして言語も世界そのものの形式ではなく、サピエンス史上最大の発明品に他ならない。その意味で、言語表現されたものは表現者の視点(ものの見方、世界観)から、表現者の関心によって、表現者のために、世界から切り出され構成されたものなのである。言語はサピエンスとは無関係にそれ自身独立に存在しているものそのものを表現することはできない。
 ノーである意味は、一切は言語による「虚構」だといっても、嘘偽りでも、誤りや間違いであるのでもない。つまり、この虚構は事実に対する虚構ではない。例えば人権は、確かに世界そのものの形式でもないし、永遠不変の真理としての根拠も、基礎も持たない。よって人権は守られなければならないことを私たちは、「知っている」のではなく「信じている」としかいえない。しかしこの信念は、「あなたの言うことを信じます」とか「この試合の勝利を信じています」といった信念とは異なる。
 自分の右手を見てほしい。それでは、それが自分の右手であることに根拠や基礎があるだろうか。何を持ってきてもこのこと以上に確実なことなどない。ウィトゲンシュタインは「これは私の右手だ」、「私は月に行ったことはない」、「大地は大昔から存在している」等の特殊な命題を世界像命題と呼んだ。世界像は私たちの一切の活動の基盤となっている。そして根拠付け、基礎付けには終わりがある。しかし世界像は一番の基礎であり、最終根拠である以上、その根拠を示すことも、何かに基礎づけることもできない。だからこそ最終根拠であり一番の基礎なのである。そして世界像は絶対的なものでも普遍的なものでもない。根拠も基礎もない以上世界像について「知っている」とは言えない。「信じている」としかいいようがない。したがって世界像は神話に属している。
 それでは世界像は絵空事だろうか。「これは私の右手だ」ことを疑うことができるだろうか。このことを疑うくらいならば、自分の精神状態を疑うべきではないか。このことを疑っていて、どうして車のハンドルが握れるだろうか。手すりに掴まることも、この文章を書くこともできなくなる。私たちは「これは私の右手だ」などと意識することなく、何の躊躇もなくこれを自分の右手として行為している。生活している。これが現実である。
 私たちサピエンスの現実は、それ自身独立に存在する実体によってできているのでも、事物背後にあって事物を事物ならたらしめている永遠不変の本質、言語でいえば言葉の背後にある意味なるものによって成立しているのでもない。絵空事というなら、これら実体や、本質、意味なるものこそ絵空事なのである。

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