「勝山左義長まつり」を訪ねて
南保 勝
先般、縁あって福井県東北部の城下町、勝山市を訪れることができた。ところで、同市の歴史的遺産を一つ挙げるとすれば、「越国」の僧、泰澄(たいちょう)大師によって確立された白山信仰の一大拠点、平泉寺が今もその姿を残していることであろう。最盛期には48社36堂6千坊を誇り、越前文化の中心的存在であったともいわれている。天正2年(1574年)に一向一揆勢により焼き討ちに合うが、その9年後の天正11年(1583年)、平泉寺に戻った僧たち(顕海僧正と、その弟子専海、日海たち)が平泉寺の再興に着手、現在残る平泉寺白山神社を建立した。その後、江戸時代にはこの地の大名たちから手厚い保護を受け白山信仰の拠点としてその土台を築いた。
平泉寺が焼き討ちにあった後の当地は、柴田勝安が一向一揆を鎮め、袋田村に勝山(袋田)城を築き統治したと聞く。勝山の地名は一向一揆勢が立てこもった御立山(通称村岡山)を「勝ち山(かちやま)」と呼んだことから起こったといわれている。江戸時代の元禄4年(1691年)には小笠原氏が入封し、明治に至るまで藩政が続いた。
また、江戸時代の当地の産業といえば、17世紀の後半から始まった煙草栽培が有名である。そのほか、繭(まゆ)、生糸、菜種などがよく知られている。特に、幕末に藩政改革を行った林毛川(はやしもうせん)は、煙草の生産に着目し専売を目指した政策を進めた。そして、この時培った販路の開拓手法、品質の改善力は、明治時代の繊維産業へと引き継がれていくのである。
廃藩置県後 、機業が勃興し、羽二重を中心とする絹織物の製造が盛んになり、さらに昭和初期には人絹織物の導入によって織物立国を形成した。戦後は、設備の近代化、技術革新により高級合繊織物の一大産地として国内外に知られた。
また、この地は、全国でも貴重な恐竜化石の宝庫としても知られており、その拠点、福井県恐竜博物館には年間100万人を超える来場者が訪れ賑わいを見せている。それと併せて、当地を代表する宝といえば、毎年2月の最終土日に開催される「勝山左義長まつり」を挙げなければならない。そして、同市を訪れた当日はこの祭りの日だったのである。奇祭と呼ばれる「勝山左義長まつり」は、勝山藩主、小笠原氏が入封して以来300年以上の歴史があるといわれる。この日も同市内の各地区には12基のやぐらが立ち並び、そのうえで色とりどりの長襦袢(ながじゅばん)姿に着飾った老若男女が独特のおどけ仕草で三味線、笛、太鼓、お囃子を披露し、その姿に多くの見物人が酔いしれた様子であった。
主催者側の公表では、今年の「勝山左義長まつり」は2日間で11万人の来訪者を数えたらしい。こうした伝統ある祭りではあるが、ただ一つ惜しいことは時代とともにその勢いに陰りが見えることだ。高齢化、過疎化、空洞化が進み担い手不足などからそれも仕方ない。とはいえ祭りは文化、いにしえの形を受け継ぎ、守り、できれば新しいエネルギーを取り込みながら次の時代に伝えてほしいものだ。
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